第一回
式会社銚子丸
代表取締役社長 石田 満 氏
~第2話~

石田氏個人のキャリアについても聞いていこう。銚子丸に入社する前は、スーパーやアミューズメント業界で辣腕を振るってきたが、新卒で入社したのは地方の信用金庫だった。そこで思うようなキャリアが描けず転職を考え出したという。

 

出来が悪くてダメなやつだった信金時代

「もうとにかく出来が悪かった。信金時代の自分は常に活躍のステージが与えられてないような不満感を持っていたダメなやつでした。今考えてみると自分の努力不足でしかないのにそう思えなかったんですね」

 

いきなり辛口の自己評価から始まったが、時代背景もあるかもしれないと振り返る。

若いうちに懸命に働き、中堅の年齢でバブル景気を迎え、何かやればすぐ給料が上がるような状況だった。渉外係や本部業務を一通り経験したが、持ち前の要領の良さでこなしてしまい、ひとつひとつの業務について深く勉強したり考えることはなかったという。

 

3つ年下の弟が同じ信金で活躍していたのも転職の後押しになった。弟は順当に出世していたが、弟が兄を追い抜くのは会社の体質として難しかった。弟の邪魔をするぐらいならと別の活躍の場を探すことにしたという。

39才で初めての転職。大手アミューズメントチェーンの株式会社シチエ(現ウェアハウス)に入社した。キャリア形成にどのような影響があったのだろうか。

 

キャリアの礎となる経験を小売業で形成

「IPOを目指している時期で、組織づくりを中心に担う管理職として入社しましたが、前職とは打って変わって自分が生き生きしている実感がありました。陣頭指揮をとって店舗をどんどん増やしていったり、30店舗ぐらいあったビデオレンタル店を全部24時間営業に変えていったりしました。給料も面白いように上がりました。やっぱり世の中って努力した分がちゃんと帰ってくるんだって実感したし、同時に信金時代の努力不足を反省できたんですね。本当に勉強になった会社でしたね」

 

それほどやりがいを感じ、結果も出した同社を辞め、また転職をすることになる。なぜだったのか。

 

「転職して2年半ぐらいで社長が変わったんですが、社長が37歳で僕は42歳でした。社長の方が若いし、社内でも僕は年長者でした。もともと若い会社を作ろうっていう思想がある会社で、社員の平均年齢は27歳でしたから、この会社にふさわしくないんじゃないかって思うようになりました。小売業の面白さをその会社で実感していたので、小売の原点と言えそうなスーパーみたいなところがいいと思って、偶然にも声をかけてもらったのでご縁だと感じて転職しました」

 

声がかかったのはスーパーのオーケーだった。前職の経験を活かし、即戦力として大活躍かと思えば、なかなかやりたい仕事が与えられなかったという。

 

「面接に行ったら組織図を出されて、どこならできる?って言われたんですよ。つまり、社長が描いている組織には空白のポジションがいくつもあった。僕はロスを削減したり買掛を管理するような役務に就いたんですが、いつまでたっても肩書きを貰えない。僕は部長なのか課長なのか、あの人は部下なのか僕が部下なのかってそんな感じで、どうしてなのか考えたら、こっちも意思表示してないからだとわかったんです。

 

それで、全店の30店舗ぐらいを回って、改善点をあげていくことにしました。20~30ぐらいはすぐ見つかるんですけど、それじゃ普通のレポートで面白くないから100個出そうと思って、3ヶ月かけてまわって『改善建白書』っていうのを出したんですよ」

 

それが功を奏して店舗運営の役職を与えられたという。しかし改善点の提案というのは一定の勇気が要るものではないだろうか。それも100個。恐怖心はなかったか。

 

「それはなかったですね。悪い所はあるし、改善しないといけないと素直に思ってましたね。腹を立てる人もいるのかもしれませんが、30店舗もあれば目が行き届かなくなってくるのは創業者もわかってましたよね。だからお前がやれよって感じだったと思います」

 

石田氏いわく、オーケーに限らず、これまでに関わったどの創業者も入社後3ヶ月以内に自社の良くないところを指摘するように要求してくるというのだ。創業者ほど自社には改善すべき点があることを理解していて、改善提案を求めているということだろう。

そのあと、100個の改善提案に基づいて実行したという。

 

「改善が完了したわけではないですけど、現実に制度として変わったものがあったり、それをやっていく中で3年半ぐらい経った時に、役員の声がかかったので認めてもらえたのかなっていうのはありますね。

 

例をあげれば教育制度ですね。採用したらお店に丸投げして育てて行けよっていうスタイルだと、早い時期で辞める人が出てくる。その辺を改善すべく、何ができれば給料がこのぐらいまで行くっていうキャリアパス制度のようなものを時間かけて作り上げたんですね。これは良かったと思う」

 

オーケーでの100個の提案と教育制度作りは石田氏のキャリア形成の中で大きな拠り所になったということだろうか。

 

「当時のオーケーの社長ってかなり厳しい人だったんですね。その人と一緒に制度を作ったりやり込んでいった12年間が自分の自信になってるのは間違いないと思います。亡くなった(銚子丸創業者の)堀地が私を入社させるときに、あの方の下で12年もやってきたんだったらうちでも我慢できるでしょって納得していましたしね」

 

3回目の転職で社長業へ

 

石田氏はこの後、もう一度シチエに転職する。どんな経緯だったのだろうか。

 

「オーケーの店舗数は59店舗になり、規模としては会社法上の大企業になったことは間違いなく、相応に役員の世代交代もさせていくだろうという背景があったんですね。僕としてはひと段落したかなと感じていたところへ、前の会社の方から力を貸してほしいと声がかかって転職しました」

 

この時、キャリアの中で初めて社長というポジションに就くことになる。やはり役員と社長は違うのだろうか。

 

「かなり違うと思います。自分の一挙手一投足で変わっていくし、最終的に決めるのは社長ですよね。その二つですよ」

 

大きな責任を背負いながらも社長業の面白いところはどこだろうか。

 

「否応もなくそうなるんですけれど、常に陽のあたる場所にいられるって事ですよね。日陰で生きるのと日向で生きるのどっちがいいって言ったら日向の道を歩く方がいいと僕は思ってます。だからどんな辛いことがあってもやっぱり社長がいいんだろうなと。

でも向き不向きがあって、何かの専門家が社長になるとちょっと難しいんじゃないですかね。僕は最初の信金から、広く浅くやってきちゃったところをすごく反省していて、経営だけは譲らず深くやりたいと思っています」

 

本気で仕事をしてなかったが、広くやってきたことが最終的に社長業につながっている。気がつくと社長しかできないようなキャリア形成になっていたわけだ。

最後に、今の銚子丸に参画したエピソードを聞いて終わることにしよう。

 

「偶然なんですけど、僕の転職には一人の友人がずっと関わるんです。1回目はシチエの役員をやっていたその友人が誘ってくれたことで始まり、オーケーは彼の先輩が声をかけてくれた。シチエに戻る時も、その友人が。銚子丸も彼の先輩経由のご縁でした。何人か面接はしたんでしょうけど、最終的に僕が選ばれたってことなので、彼がずっと橋渡ししてくれて、ご縁を運んできてくれたっていう、すごくて不思議な話です」

 

一人の友人を起点に模索を繰り返しながら、最後は創業者からバトンを受け継ぐプロ経営者となった石田氏。人生とは、仕事とは、先は見えないけれど振り返れば点と点が結びつき、ひとつの道を形成しているものなのだと改めて感じたインタビューだった。